叫ぶ男を突き飛ばすようにして走る。「おい、どうした!」「何かあったか?」「い、いたんだ! 見ない顔だ、白沢の御当主が言っとった新婿に違いない!」
「おい、御当主に連絡だ! 俺らは追うぞっ!」 声を背後に聞きながら、東と思われる方向へまっすぐ走る。
人の目など関係ない。とにかくいまは、逃げること最優先だ。 走る。走る。 今度は靴ばきだ。不案内な場所、霧の中とはいえ、簡単に追いつかれはしない。
「おい、あいつ」「とまれっ! そっちはホウジ様だぞ!?」 わかっている。 だから行くのだ。 なにしろホウジ稲荷は“影仏の洞”や“泥仏様”と同じ、一般人が容易に入れない神域。急場に追手を撒くのに、うってつけだ。
だが、彼女の正体が判明して、彼女がもたらす奇妙な惑いは、半ば消えた。そのぶん、ホウジ稲荷への恐れも軽減されている。 ――そう。なにも恐れることはない。 自分に言い聞かせながら、不気味の森に足を踏み入れる。 気のせいか、肌が泡立つ。 怖気(おぞけ)。 耳鳴り。“禊の儀”の時の比ではない、おぞましい気配。 だが、追手はじき来る。 まずは森の入口近くの木陰に、持ってきていた羽織袴を吊るして、人がいるように偽装。 ――このままホウジ稲荷を横切って、裏手から、抜ける。 不吉な予感をごまかすように、段取りを考えながら、進む。 覚えのある、逆向きの狛犬。しめ縄で何重にも封じされたホウジ稲荷が見える。 寒気がする。“禊の儀”の時感じたものと同質の。 体が熱い。 肌が、ごわごわする。 まるでゴム製の全身スーツでも着ているような違和感。 ――体が、熱い。 しかし魅入られたように、前に進む。「待てーっ!」 声が、しだいに遠くなっていく。 早足ながらも、すこし休めたせいで、体力は残っている。Cath Kidston(キャスキッドソン) ポーチ 短く息を切らしながら、重くなってきた手足を振り抜いて、ついに目的の場所に到達した。◆ 霧の中、なお暗い。 そんな状態を、どう表現すればいいのだろう、 とにかく、不吉な存在感をもって、その小さな森は存在した。 ホウジ稲荷。 かつて化生谷に棲(す)んでいた化物を封じた神社。 一度来れば、もう一度来ようとは思えない、不吉で異質な場所だ。 もし、黒沼繭(くろぬままゆ)の正体がわからないまま。 あの正体不明な狐面の化生のままだったなら、この状況でも、けっしてこの場所へは来なかっただろう。関連している文章:
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